1964年に起きた新潟地震1964年6月16日午後1時ごろに発生した地震。新潟県沖から山形県沖に広がる断層が引き起こした。震源は粟島付近で、マグニチュードは7・5。新潟県内の最大震度は、当時の観測方法で震度5だった。新潟県の資料によると、県内の死者が14人、負傷者は316人。新潟市では液状化現象とみられる被害で県営アパートが倒壊し、完成したばかりの昭和大橋が崩落した。製油所の石油タンクで起きた火災が約2週間にわたって続いた。から、2024年6月16日で60年となる。多くの記者らが被災地の惨状を伝えようと力を尽くした中、ピュリツァー賞カメラマンの沢田教一(1936〜70年)の姿もそこにあった。地震直後を捉えた写真は今も残り、震災の生々しさを伝える。沢田の出身地である青森県を拠点とし、写真を保管する「東奥日報社」の斉藤光政編集委員がルポを寄せた。ルポや、戦場カメラマンへのインタビューを通し、沢田の視点に迫った。(2回続きの2、写真はいずれも東奥日報社提供)

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◎さわだ・きょういち 1936年、青森市生まれ。米軍三沢基地内で働いていた際に知り合った将校の紹介で米UPI通信に入社。新潟地震の翌年、ベトナム戦争の取材を始め、数多くの写真を世界に配信した。銃弾を避けながら川を渡る母子の写真「安全への逃避」で日本人として2人目となるピュリツァー賞を受賞したほか、ハーグ世界報道写真展大賞や米国海外記者クラブ賞を受けている。米軍車両がベトナム人兵士の遺体を引きずる様子を撮った「泥まみれの死」なども高く評価された。70年にカンボジアで取材中に銃撃され、34歳で死去。

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◆地震直後に自衛隊車両で新潟入り、写真をニューヨークやロンドンへ

 沢田教一の新潟地震写真は記者と連名の現地リポートや経費精算書とともに見つかった。

沢田教一のリポート

 それらによると、沢田は1964年6月16日の地震発生直後、東京を出て長野県を回り、自衛隊の車で17日午前3時には新潟市に到着。18日まで2日間、市内で取材し、「傾いた建物、浸水した道路、火災の煙、救助を始める人々、路上で眠る人々、水を得る人々」などの写真をニューヨークやロンドンへ送った。

萬代橋東詰(現在の新潟市中央区)
撮影場所不明

◆新潟地震の翌年、ベトナム戦争の取材へ

 沢田教一は...

残り2203文字(全文:2652文字)