
資料編 紹介
・放射性廃棄物の地層処分、選定は3段階で

放射性廃棄物の地層処分に向けた適地の選定は、2000年に設立された「原子力発電環境整備機構」(NUMO)が担っている。NUMOによる選定過程は3段階に分かれる。
・原発再稼働の「地元同意」自治体アンケート

東京電力福島第1原発事故後に停止し、原子力規制委員会の審査を終えた原発の再稼働問題について、新潟日報社は2014年6月7日までに、新潟県内の全30市町村長と泉田裕彦知事を対象としたアンケート調査を実施した。
・自治体アンケート 30キロ圏内外で意識に差

アンケート調査で、原発再稼働に必要な「地元同意」を求める範囲について、柏崎刈羽原発から半径30キロ圏の内外で市町村長の意識に差がある傾向が表れた。
・原発用地<上>「山を売ってくれんか」、田中角栄元首相が依頼

柏崎刈羽原発の用地取得をめぐり、用地の一部となった山林を保有していた北越製紙の元社員が田中角栄元首相が当時の社長に山林売却を依頼したとする証言をした。
・原発用地<下>新潟地震で被災した北越製紙、「恩返し」で売却か

田中角栄元首相側近に社有林を売却した当時、北越製紙の社長を務めていた桜井督三氏は、電力業界の重鎮だった。
[再考原子力]のラインナップ
第1部 狙われる地方 放射性廃棄物処分

政治、行政、電力業界がこれまで先送りしてきた大きな課題が核のごみの最終処分問題だ。原発と同様に、処分地も地方に担わせようとする動きがある。
第2部 置き去りの日本海 地震津波研究

柏崎刈羽原発をはじめ、日本海側には国内のほぼ3分の2の商業用原子炉がある。しかし、太平洋側に比べ日本海側の地震研究は遅れていると指摘される。
第3部 変わらぬ構造 再稼働論議

世界史に残る原発事故が起きた日本で、原子力災害対策の不備はどう議論され、見直されたのか。不安を抱く地元の声は政策に反映されたのか。
第4部 もう一つの道 脱 原発依存

政府は一定規模での原発維持を目指している。本当にその道しかないのか。原発に頼らない「もう一つの道」を模索する欧州各国を訪れた。
歴史編・電力 首都へ[前編]源流

柏崎刈羽原発や福島第1、第2原発は、首都・東京への電力供給を長年担ってきた。始まりは、大正時代までさかのぼる。
歴史編・電力 首都へ[中編]戦後再編

戦後、電気事業再編のうねりの中で新潟県が首都の電源地として固定化されていく経過を追う。
歴史編・電力 首都へ[後編]巨大基地

首都圏のための巨大電源基地・柏崎刈羽原発が、都心から200キロ以上も離れた日本海側の地に設置された経緯と背景とは。
資料編

核のごみ最終処分地はどう選ばれるか。プロセスを紹介するほか、「地元同意」を巡る自治体アンケート(2014年)を詳報する。
田中角栄新潟県出身の政治家。新潟県人ではただ1人の内閣総理大臣経験者。1918年に現在の柏崎市に生まれ、1993年死去。土建業経営などを経て、政界入り。衆議院議員を16期43年務め、郵政大臣、大蔵大臣などを歴任。72年6月に「列島改造論」を出版、翌7月から74年12月までの2年5カ月間、総理大臣を務める。在任中は日中国交正常化などを実現する。金脈問題が取りざたされ、後に辞任。5億円の受託収賄罪などに問われた「ロッキード事件」で起訴される。田中氏は死去により公訴棄却。1989年政界引退。元首相が東京電力柏崎刈羽原発新潟県の柏崎市、刈羽村にある原子力発電所で、東京電力が運営する。1号機から7号機まで七つの原子炉がある。最も古い1号機は、1985年に営業運転を始めた。総出力は世界最大級の約821万キロワット。発電された電気は関東方面に送られる。2012年3月に6号機が停止してから、全ての原子炉の停止状態が続いている。東電が原発を再稼働させるには、原子力規制委員会の審査を通る必要がある。7号機は2020年に全ての審査に「合格」した。(新潟県柏崎市・刈羽村)用地の一部となる土地の取得に関し、北越製紙(現北越紀州製紙・本社長岡市 ※北越紀州製紙は2018年に北越コーポレーションに商号を変更)の故桜井督三社長に要請していたという元社員の証言は、1964年の新潟地震1964年6月16日午後1時ごろに発生した地震。新潟県沖から山形県沖に広がる断層が引き起こした。震源は粟島付近で、マグニチュードは7・5。新潟県内の最大震度は、当時の観測方法で震度5だった。新潟県の資料によると、県内の死者が14人、負傷者は316人。新潟市では液状化現象とみられる被害で県営アパートが倒壊し、完成したばかりの昭和大橋が崩落した。製油所の石油タンクで起きた火災が約2週間にわたって続いた。で新潟工場(新潟市)が被災した同社の再建に田中氏が動いた経緯とも合致する。北越製紙による山林売却は、田中氏への恩返しとみることもできそうだ。田中氏の没後20年を経て柏崎刈羽原発立地への関与を示唆する新たな材料が出てきた。
関係者の大半は亡くなっており、柏崎刈羽原発の立地に田中氏がどう関わったかははっきりしていない。
北越製紙が2007年に発行した社史「北越製紙百年史」によると、新潟地震では新潟工場が被災、新栗ノ木川両岸の堤防が決壊して浸水するなど大きな被害が生じ、経営に大打撃を与えた。東電から巡視用のヘリコプターを借り、役員が新潟工場に向かうなど電力会社の支援を受けた。
社史執筆者の松本和明・長岡大教授(地域産業史 ※2019年から京都産業大教授)は新潟地震後の北越製紙の状況を「株価が落ち、つぶれるとまでいわれた厳しい時期だった」と解説する。
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復旧の陣頭指揮に当たったのが...