幕末の長岡藩を率いた河井継之助にゆかりのある儒学者、鹽谷宕陰(しおのやとういん)の漢詩が書かれた書画が、新潟県小千谷市平成2の慈眼寺に寄贈された。継之助が備中松山藩(現在の岡山県高梁市)で改革を成し遂げた山田方谷(ほうこく)に師事する際に、宕陰は橋渡し役を担った。慈眼寺は、継之助が新政府軍との交渉に臨んだ場として知られており「継之助に関係する作品が加わったことは喜ばしい」としている。
宕陰は江戸で育ち、幕府の昌平坂学問所で教授を務めた。方谷が江戸に遊学していた時に交友を深めており、継之助も江戸での遊学中に宕陰から教えを得ていた。継之助は1859(安政6)年、宕陰に書いてもらった紹介状を持って備中松山に赴き、方谷を訪ねた。
継之助は、方谷から学んだ知識を生かし、小藩だった長岡藩の力を養って軍事力を強化。幕末の戦乱で、新政府軍と激しい戦いを繰り広げた。
書画は、小千谷市本町1の米周時計店で保管されていた。漢詩に加え、梅や月の絵が描かれているが、詩の内容や作者は不明だった。
店主の米岡周一さん(86)は、小千谷市立図書館長などを務めた小千谷市内在住の山本肇さん(68)に分析を依頼。山本さんは文献を調べたり、国立国会図書館(東京)などに照会したりし、書かれていた漢詩は宕陰が詠んだ「區中梅叢(くちゅうばいそう)」であると突き止めた。
漢詩は「梅の花を見ている月下の美人や、雪中にいる気品ある人の姿を思い描いている」という意味だという。
書画の作者はくしくも、山本さんの先祖で国学者の山本比呂伎(ひろき)さんだったことが、末尾にある署名から分かった。1897(明治30)年ごろに宕陰の詩を記し、詩の内容を表現した絵を描いたとみられる。
書画は縦40センチ、横170センチほどの額に収められている。額は2004年の中越地震で壊れていたが、継之助ゆかりの人物の漢詩と分かったため、修復した上で24年3月、慈眼寺に寄贈した。
米岡さんは「家に置いていたら、埋もれてしまうところだった。多くの人に見ていただけたらいい」と話す。慈眼寺住職の船岡芳英(ほうえい)さん(69)は「小千谷の歴史の深みやロマンを感じ取ってもらえればうれしい」と話している。
見学の問い合わせは慈眼寺、0258(82)2495。
























