父貞雄の思い出を語る大竹達雄さん
 父貞雄の思い出を語る大竹達雄さん
 マニラ会談へ向かう使節団(手前中央が河辺虎四郎中将、その手前右が大竹貞雄少尉)=1945年8月19日、沖縄・伊江島(米海軍歴史・遺産コマンドのアーカイブより)

 中国戦線、参謀本部、終戦処理交渉―。徴兵され、太平洋戦争の渦中を生きた日系人記者がいた。戦前の国策通信社、同盟通信と、後身の共同通信で活躍した大竹貞雄だ。日米両国にまたがった貞雄の家族。戦争が始まるとそれぞれの祖国に忠誠を誓い、敵と味方に分断されることになった。

 貞雄は1913年、米サンフランシスコで生まれた。24年に排日移民法が成立したのをきっかけに、一家で帰国。米国生まれの2世といじめられた。左翼運動にも関わった後、32年に米国へ戻った。

 同盟通信のニューヨーク支局で働きながら、大学に通った。東京本社へ転勤すると、41年に徴兵検査に合格した。

 そのころ、ハワイ出身の日系人の女性と結婚。同...

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