「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」「天才バカボン」ー。数々のヒット作を世に送り出した偉大な漫画家・赤塚不二夫さんは、1935年9月に満州で生まれ、少年時代を新潟で過ごしました。そんな縁から、1996年に新潟日報の夕刊上で波乱の半生を語ってもらった連載記事が「ふるさと人物伝 人生はギャグなのだ」です。今回、赤塚さんの生誕90周年を記念し、デジタル上で復刻掲載します。

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 ボクの一家は流浪の民だったね。オヤジが満州(現中国東北部)で特務機関ににいたから、一カ所に何年も住むということがなかったんですよ。

 危険な任務だったからね。後継ぎを残そうとボクだけ一人、大連の親類に預けられたり、戦争に負けたらオヤジがシベリアに抑留されちゃったりと、家族全員がそろったのは、ボクの人生ではほとんどなかったなあ。

 日本に引き揚げた後も、最初はお袋の実家のある、奈良県の大和郡山市に転がり込んで、13歳の時に新潟に引っ越したのね。だからボクの本籍は、オヤジの生まれた新潟県西蒲原郡四ツ合村(潟東村=新潟市西蒲区)だけど「ふるさと」って感じはあんまりしない。

 故郷って、幼年期の記憶としてよみがえる情景だと思うのですよ。そういう意味での故郷はやっぱり満州だよね。大平原のでっかい夕日なんて今でも鮮明に覚えているもの。

 じゃあ奈良も新潟も、単なる通過点かというと、そういうことじゃなくて、そこにいた年代や、感受性がまた問題になってくるんですよ。

 大和郡山はね、関西だから調子はいいし、個性の強い人間がいっぱいなんだ。食糧難で激動の時代だから生き馬の目を抜くような世界で、ヤミ市だらけでね。あのときのショックが、マンガ家になるときによみがえってきたのね。

 あの時のバイタリティーを描いてみようと思ってできたのが「おそ松くん」。初期のボクのマンガでは、強烈な関西の影響が色濃く出ていたよ。

 で、潟東に行ったら気が抜けちゃった。あまりの田舎者でボケーッとしてて。人がよくてね。今じゃどこに言っても東京とあまり変わらないけど、当時の地域差ってすごかったんだよ。

 中学を出て2年半ほどだったけど、看板屋で働いていた新潟市は、初めての大都会だった。道が広くて、柳の木がずらーっとあってね。

 ボクが映画マニアになったのも、新潟で映画の看板かきの助手をしたからなんだ。

 看板屋では、配色とか技術的な面でマンガに役立った。明朝体でもゴシック体でも、作品のタイトル文字は全部自分でかけるようになったし。デザイン学校に通っていたようなもんだね。

(①は会員以外にも全文公開します)

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