◆石見銀山を調べ、佐渡に誇りと自信

なぜ、元筑波大教授・田中圭一は、佐渡金山が世界遺産を目指すべきだと考えたのか。

 「佐渡金山が日本一の鉱山だからでしょう」。田中と島根県大田市の石見銀山を調査した経験のある石見銀山資料館館長・仲野義文は明言する。「当時の最先端の技術を取り入れ、システマチックな生産体制をつくり大量の金銀を生産した。世界遺産に値すると考えたのは当然といえる」

 2007年に世界遺産に登録された石見銀山は、16世紀から手作業で銀を掘り製錬し、良質な銀を大量に生み出し世界に流通させ、経済と文化の交流に貢献した。仲野は「佐渡は石見の技術を取り入れ、高めて完成させた。鉱山の歴史を見るには、石見と佐渡の両方を見るのがいい」と説明する。

 実際、佐渡金山は、17世紀からの400年間に金78トン、銀も2330トンを産出した=表参照=。坑道の総延長は、相川金銀山だけでも約400キロに及ぶ。江戸時代、幕府は佐渡を重要な収入源とみなし、幕末まで奉行所を置いた。

 奉行所には絵師がおり、鉱山の状況を幕府へ報告するために膨大な記録を残した。絵巻だけでも県内の約40点をはじめ、写本を含め約150点が国内外で確認されている。

 一方で、大田市によると石見銀山の総産出量は明らかになっていないが、17世紀当初に年間40〜60トンほどの銀を産出していたと推定されるという。これは、当時の世界の総産出量のうち少なくとも1割に当たると考えられている。

 石見の坑道の長さは約100キロ。当初、佐渡と同じように奉行が統治していたが、産出量が減少したため1675年に代官に切り替わった。現存する絵図は3点のみだ。

 坑道の土でつくる陶芸「無名異焼」はかつて、佐渡と石見の両方にあった。石見では、既に継承されていないが、佐渡では人間国宝の陶芸家を輩出するまでに高められた。

 田中と共に石見銀山の調査をしていた大田市石見銀山課長補佐・中田健一は「田中先生は、佐渡の金銀の産出量や文化度の高さに誇りを持っていた」と語る。

 佐渡に誇りを抱きつつも、田中は石見の世界遺産登録のために力を尽くした。元大田市教育長・大國晴雄は「文献調査団の主力として、石見と佐渡を比較しつつ多くの論考を発表し、指導と助言を与えてくれた」と述懐する。

復元された御役所が立つ佐渡奉行所跡。奉行所は幕府が佐渡を重視した証しでもある=佐渡市相川地区

 石見銀山はその後、2001年に世界遺産登録の前提となる「暫定リスト」に記載され、06年に政府が推薦書を国連教育科学文化機関(ユネスコ)に提出した。07年、ユネスコ諮問機関に「登録延期」の勧告を出されるが、最終決定の場の世界遺産委員会で逆転登録を勝ち取った。1995年に取り組み始めてから、12年での悲願達成だった。

 翻って佐渡は、97年に田中らが登録に向けた活動をスタートさせたものの、いまだ登録を果たしていない。佐渡と石見の道のりを分けたもの-。それは「草の根」と「トップダウン」の違いだった。(敬称略)

特集「輝ける島へ-佐渡・世界遺産の行方」

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