「リトバルスキーが走りオッツェが飛ぶ」
Jの熱気が新潟にも・1993年
1993年9月16日の新潟日報は、前日の15日、新潟県初のJリーグ公式戦としてJリーグヤマザキナビスコカップ、ジェフ市原(現千葉)―ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)戦が新潟市陸上競技場で行われたことを伝えた。
Jリーグはこの年の5月に華々しく開幕したばかり。その盛り上がりが新潟にも届いた。ピッチではワールドカップ(W杯)で優勝した元ドイツ代表のリトバルスキーらが躍動。この試合は、新潟県民が地元で、一流のサッカーに触れた貴重な瞬間だったと言えるのかもしれない。
それから30年が過ぎた今。アルビレックス新潟が、ナビスコカップから名称を変えたYBCルヴァンカップの決勝にまでたどり着いた。クラブにとって、日本一を懸けた初の決勝の舞台だ。過去の紙面を紹介しながら、このカップ戦と新潟サッカーの絡み合う歴史を振り返る。
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この試合は5-0でジェフ市原が圧倒した。ジェフにはリトバルスキーにオルデネビッツ(オッツェ、1994年Jリーグ得点王)、パベル、中西永輔。現在、新潟に詳しい解説者として知られる宮澤ミシェルもいるが、実はこの試合、二度の警告を受けて退場している。
ヴェルディ側は主力を欠いたと書かれているとはいえ、ビスマルクにペレイラ、永井秀樹、菊池新吉らと、往年の名選手ばかりだ。ベンチに控えた菊原志郎は、のちにJFAアカデミー福島で、現在新潟で活躍するボランチ宮本英治を育てることになる。
当時の紙面からはJ人気の熱狂ぶりがうかがえる。この試合のチケット欲しさに、販売したJRの窓口には2日前から徹夜組の列ができた。新潟市陸上競技場の約1万5千人という観客数は、1964年の一巡目の新潟国体以来だったという。
また、競技場のピッチは事前に阿賀野川河川敷公園から芝の移植を行い、移動式だったゴールポストは新設に。数百万円の予算をかけ、慌てて“J仕様“を目指した。
だが、この試合で新潟サイドは課題を突きつけられることになる。
「新潟開催は難しい」
初のリーグ戦・1995年
盛り上がったナビスコ杯の初開催だったが、Jリーグ事務局から手痛い指摘も受けた。グラウンドコンディションの悪さから「他に条件のよい会場もある。このままでは次回の新潟開催は難しい」。
これにより、市などは芝生の全面張り替えをはじめとし、スタンドや照明、電光掲示板を整備する。当時、新潟は2002年のW杯国内候補地に名乗りを上げ、ビッグスワンを建設する計画も進んでいたが、「Jリーグの試合も呼べないようでは、運動に水を差しかねない」(当時の平山征夫知事)ということだった。
こうした結果が実り、1995年には県内で初めてのJリーグのリーグ戦が新装の新潟市陸上競技場で開催された。
翌1996年には無事、日韓W杯の開催地の一つに新潟が決まる。ナビスコ杯の熱気と教訓は、新潟サッカーが一歩前へと進む要因となった。
そして、この柏レイソルーサンフレッチェ広島の試合のスタンドには、まだ「アルビレオ新潟FC」と呼ばれていたクラブの若杉透総監督がいた。試合から大きな刺激を受けたという。
クラブはW杯招致活動の一環で強化が図られ、オランダの指導者バルコム氏を招いたばかり。1997年に「アルビレックス新潟」と名前を変えたチームは、新潟のサッカー界を先導していく存在となる。
地元デビューならずも、MVPに
新潟の星が輝く・1998年
アルビの話の前に、忘れてはいけないのが川口信男だ。三条市出身で新潟工業高校、順天堂大学を経て、1998年に黄金期のジュビロ磐田に入団。大学の先輩の名波浩に、中山雅史、高原直泰、ドゥンガと、そうそうたる顔ぶれがいた。川口が最初に輝きを放ったのは、ナビスコ杯だった。
この年の5月、新潟で1次リーグ浦和レッズ戦が開催されたが、ルーキーに出番はなかった。しかしフランスW杯で中山らが離脱する間に、同じく新人だった高原と2トップを組み、持ち前のスピードを最大限に発揮。ナビスコ杯決勝戦では2ゴールの活躍を見せ、MVPに輝いた。
ナビスコ杯MVPは第1回大会の三浦知良(ヴェルディ川崎)に続き、ビスマルク(同)、サントス(清水エスパルス)、ジョルジーニョ(鹿島アントラーズ)と世界でもトップレベルの選手が獲得。その次に、川口信男という新潟県人の名前が刻まれたのだった。
いよいよアルビレックス参戦!
名古屋との奇縁・2004、11年
アルビレックス新潟はJ2に昇格した1999年からナビスコ杯に参戦している。しかし、1回戦負けが続いた。2002年からはJ1チームに参加が限られ、新潟はJ1に昇格した2004年に再参戦。初めてこの大会で勝利を挙げた相手こそ、今回決勝で対戦する名古屋グランパスだった。
リーグ戦方式の予選の3戦目。シュート数は5対11ながら、鈴木慎吾の直接FKとエジミウソンのPK、ウェズレイに失点を許したものの、少ないチャンスを生かして2-1の勝利。反町康治監督は「新潟らしい得点と思うよ」と笑みをこぼし、名古屋の3連勝を阻んだ。
J1初年のこの試合の先発は、上の2人のほか、野澤洋輔、アンデルソン、秋葉忠宏、高橋直樹、梅山修、本間勲、桑原裕義、山口素弘、船越優蔵。記憶に残る選手も多いだろう。
ただ、当時から決して選手層が厚いクラブでも、リーグ戦以外に十分な余力があるクラブでもない。練習環境の面では、この2004年末にアルビレッジが完成したが、発展途上のクラブは1次リーグを突破できない年が続いた。
2011年は、東日本大震災の影響で簡略化された大会だった。そこで新潟は初めてベスト8に進む。そこで待っていた相手は...



























