湯沢町で初めて開かれた1999年のフジロックのポスター(スマッシュ提供)

 日本を代表する野外音楽フェス「フジロックフェスティバル」が新潟県湯沢町の苗場スキー場で今年も開催されます。中越地震や新型コロナウイルス感染症の流行を乗り越え、歴史をつないできたフジロック。その歩みは開催地の湯沢町と共にありました。「新潟日報」に掲載された記事や、紙面には載せきれなかった写真などから歩みを振り返ります。

1999年 苗場での初開催

「田舎へ行こう!」-。忌野清志郎がフェスティバルのテーマソングを楽しそうに歌う。歌詞にうたわれているように、緑の谷を渡る涼しい風が、会場の熱気を心地よく冷ましていく。

 苗場スキー場で初めて開かれたフジロックの様子を報じた記事は、こんな書き出しだった。

 忌野清志郎が歌うフジロック公式テーマソング「田舎へ行こう! Going Up The Country 」は、祭典の幕開けを告げるアンセムであり続けている。

 フジロックは、まだロックフェスが一般的な存在ではなかった1997年に始まった。第1回は山梨県の富士山麓で開いたが、台風で2日目を中止に。翌98年は東京都内で開催し、99年に苗場に会場を移した。広大な敷地に複数のステージを設け、3日間にわたって開催するというスタイルが始まったのも、99年だった。

1999年8月5日付の新潟日報朝刊に掲載された写真特集(画像をタップ・クリックすると拡大表示できます)

 1999年の出演者は、ブラー、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、ザ・ブラック・クロウズ、フィッシュと、そうそうたる顔ぶれだった。3日間で延べ7万人を超える人が「田舎」に詰めかけた。

99年のフジロックでパフォーマンスするレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのザック・デ・ラ・ロッチャ=湯沢町

 前年98年のフジロックでは、盛り上がった観客が将棋倒し状態となり、演奏の中断が相次いでいた。ミッシェル・ガン・エレファントのステージで、ボーカルのチバユウスケが「おまえら絶対に死ぬなよ」と呼びかけたのは語り草となっている。99年の新潟日報の記事には、当時の空気感がうかがえる一節もあった。

 真夏のイベントでけが人の多発も心配されたが、3日間で打撲や脱水症状で救護を必要とした人はわずか20人。スタッフの一人は「参加者が野外イベントになれてきた以上に湯沢の自然が人を平和な気持ちにさせるのでは」。

 主催のスマッシュ(東京都港区)の日高正博代表は開演前、「ステージの後ろには森が広がり、きれいな小川も流れている。このすばらしい自然の中でのんびりと楽しんでほしい」と話していた。

 ステージ前でリズ厶に合わせて跳びはねる人、シートを広げ恋人と日光浴を楽しむ人、疲れた体を木陰で休める人。気の早いトンボが、ステージのマイクに、観客の頭に舞い降りる。ロックの普遍のテーマ「愛と平和」の世界が会場いっぱいに広がっていた。
1999年の取材カメラマンが、夜の会場の寒さに耐えかねて購入したフジロックのロゴ入りパーカ。記念として大事に保管していた

2001年 「会場の雰囲気がすべて良く、とにかく最高」

 フジロックは、その後も順調に開催を重ねる。

2000年フジロックフェスティバルのキービジュアル。1日目のヘッドライナーは、これが解散前のラストライブとなったブランキー・ジェット・シティが務めた(スマッシュ提供)

 ニール・ヤングやパティ・スミス、ステレオフォニックスらが出演した2001年。7月28日付の新潟日報朝刊では、会場の盛況ぶりが伝えられた。

01年7月28日掲載。ギャラガー兄弟がまだオアシス。見出しのワードチョイスにも時代を感じる(画像をタップ・クリックすると拡大表示できます)

2002年 みんなに優しいフェスに

 名盤「バイ・ザ・ウェイ」をリリースしたばかりだったレッド・ホット・チリペッパーズがヘッドライナーを務めた、2002年のフジロック。開催を2週間後に控えた7月12日、新潟日報に掲載された記事には「優しいロックフェスティバル」の言葉があった。

 3日間で約10万人の集客を見込んでいたこの年、会場では使った後に土に返すことができる素材の食器が導入された。

 フェスではこれまでも、環境に優しいフェスティバルを目指してごみの持ち帰りなどを進めてきた。食器を天然素材のものに替えることで、より一層ごみ問題の解決に近づけようと大手CDストアチェーンのHMVジャパン(東京都港区)が協力、食器を提供することになった。
 天然素材食器はアシやサトウキビの搾りかすなどの非木材が材料。お皿やおわんなどの食器約30万食分を用意し、会場内のすべての飲食店で使われる。使用後には肥料にすることができるため、大勢の観客が訪れて傷みやすい会場付近の芝生の再生に役立てる予定だ。
 同社は「これを機会に音楽ファンと一緒になって環境を考えたい」と話している。

 木道「インディペンデンスボードウオーク」が設置されたのも02年だった。車椅子で訪れる人も、会場内の散策を楽しめるようにという試みだ。参加アーティストが板にメッセージを描いたり、観客が設置を手伝ったりし、翌03年にはボランティアや地元住民らによる木道づくりの様子が新聞に載った。

2003年7月9日の新潟日報朝刊(画像をタップ・クリックすると拡大表示できます)

2004年 「ヒール・ニイガタ」

 2004年のステージには、ルー・リードやザ・ルースターズ、ブレーク間もないフランツ・フェルディナンドやアジアン・カンフー・ジェネレーション、ザ・キラーズらが出演し、3日間で延べ約9万人が熱狂した。その約3カ月後、新潟県は大きな災害に見舞われた。

中越地震で脱線した上越新幹線の車両=04年10月25日、長岡市

 04年10月23日、新潟県中越地方を震源とする強い地震が発生した。後に「中越地震」と呼ばれるこの地震では、旧川口町(現在の長岡市)で最大震度7を観測した。新潟県や内閣府の資料によると、地震の影響で68人が亡くなり、4795人が重軽傷を負った。住宅の被害は12万棟を超えた。

 04年12月、冬だというのに新潟日報に「フジロック」の文字があった。

 毎夏、南魚湯沢町の苗場スキー場で行われている「フジロック・フェスティバル」の事務局は来年1月、中越地震チャリティーコンサートを全国4都市で開く。代表の日高正博さんは「音楽を通じて温かく熱い励ましを新潟に送りたい」と話している。
 「ヒール・ニイガタ」と名付けたコンサートは1月6日に大阪、10日に東京・渋谷とお台場、横浜市、札幌市の計5カ所のライブハウスで開催する。出演はChar、電撃ネットワーク、サンボマスター、東京スカパラダイスオーケストラ、くるり、ハナレグミ、忌野清志郎ら。
 コンサートは、日高さんが「新潟応援団」を結成し、湯沢町と共催で企画。過去にフジロックに出演したアーティストに無償出演を呼び掛け、会場も無料で使えることになった。収益全は県災害対策本部に贈る。

 その後の記事によれば、「フジロック・フェスティバル新潟応援団」は東京や大阪など6カ所でチャリティーライブを開いた。出演者のほか、スタッフも無償で協力し、約2800万円の義援金を新潟県災害対策本部に送った。義援金の寄付は、その後も続いた。

2006年 地元と共に10周年

 中越地震の揺れを、フジロックを主催する「スマッシュ」代表の日高正博さんも苗場で経験していた。日高さんは、2006年の新潟日報社のインタビューで、こう語っている。...

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