太平洋戦争末期の激戦地・硫黄島=2023年10月、東京都小笠原村
 太平洋戦争末期の激戦地・硫黄島=2023年10月、東京都小笠原村
 硫黄島を訪れ、軍属として命を落とした兄山本力男さんの名前が刻まれた慰霊碑に水をかける森下佳代子さん=2024年10月、東京都小笠原村(家族提供)
 硫黄島産の綿を使った布団を手にする森下佳代子さん=7月、東京都八丈町
 硫黄島での子ども時代を語る森下佳代子さん=7月、東京都八丈町
 硫黄島での子ども時代を語る森下佳代子さん=7月、東京都八丈町
 硫黄島での子ども時代を語る森下佳代子さん=7月、東京都八丈町
 1945年2月から3月に撮影された、小笠原諸島・硫黄島の摺鉢山周辺で火炎放射器を使って攻撃する米海兵隊員(Corbis提供・ゲッティ=共同)
 小笠原諸島の硫黄島に上陸する米軍=1945年2月19日(Corbis提供・ゲッティ=共同)
 硫黄島の海岸に横たわる船の残骸。戦後、米軍が波止場整備のために沈めたが、隆起により姿を現した=3月、東京都小笠原村
 硫黄島の「天山慰霊碑」近くに立つ供養塔=3月、東京都小笠原村
 硫黄島島民平和祈念墓地公園にある祈りの塔「やすらぎ」=4月、東京都小笠原村
 硫黄島の「天山慰霊碑」=3月、東京都小笠原村
 小笠原諸島・硫黄島
 硫黄島を巡る経過
 明治学院大の石原俊教授(本人提供)

 太平洋戦争末期に激戦地となった硫黄島(東京都小笠原村)では、米軍上陸を前に島民が強制疎開し、戦後80年の今も帰還できていない。1968年に米施政権下から日本に返還されたが、一般人の立ち入りは制限。多くの遺骨も残されたままだ。戦争に故郷を奪われたかつての島民は「平和で豊かな島だったことを忘れないで」と願う。

 「ガジュマルのつるでできたブランコで遊んだよ。木の上で追いかけっこもした」。10歳まで島で暮らした森下佳代子さん(91)=東京都八丈町=は懐かしく思い出す。マンゴーやパパイアの木を竹でつついて実を落としては、ほおばった。

 東京から南へ約1250キロ。島には戦前、約1100人が暮らした。森下...

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