「機動隊と衝突した後に畑に行くと、サツマイモの葉が踏みにじられ、つるだけになっていました」。砂川闘争当時の様子を話す福島京子=東京都立川市
 「機動隊と衝突した後に畑に行くと、サツマイモの葉が踏みにじられ、つるだけになっていました」。砂川闘争当時の様子を話す福島京子=東京都立川市
 8日の測量を前に滑走路わきに座り込む学生たち=1957年7月7日、東京都砂川町(現・立川市)
 ビキニ環礁で1954年3月に米国が行った水爆実験(米エネルギー省提供、左上)、東京の米軍横田基地(右上)、米軍立川基地拡張に反対する住民集会(下)のコラージュ
 砂川闘争のときの写真を見せる島田清作。「ビキニ環礁の水爆実験があった日は、私の高校合格発表の日でした」=東京都立川市
 砂川闘争のときに有刺鉄線のバリケードを挟んで機動隊と対峙した様子を話す島田清作=東京都立川市

 「砂川闘争」で農民たちは国民主権を掲げて立ち上がり、米軍立川基地の拡張計画を阻止した。根底にあったのは、過去の土地収奪や原水爆への怒りだ。沖縄をはじめ各地で続く基地問題に、闘争の成果はどこまで生かせているだろうか。(敬称略、文は共同通信編集委員・内田恭司、写真は同・堀誠)

▽国民主権の下で

 「原爆を積んだ爆撃機がここから飛び立つのは恐ろしいことだと思っていました」。東京都立川市の砂川に今も住む福島京子(75)は、70年も前の記憶をたどった。

 終戦から10年後の1955年5月、政府は米軍立川基地の滑走路延長計画を隣接する砂川町(現・立川市)に通告した。朝鮮戦争は休戦したものの、冷戦の激化で東アジ...

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