地図を手に、直江津空襲で爆弾が投下された地点を説明する田辺松蔵さん=上越市黒井
地図を手に、直江津空襲で爆弾が投下された地点を説明する田辺松蔵さん=上越市黒井

 太平洋戦争中、県内で初めて空襲による被害者が出た直江津空襲から5日で80年になった。上越市黒井の田辺松蔵さん(85)は当時5歳で空襲を体験した。大人になり被害の全容が明らかになっていないことを知り、負傷者らへの聞き取りや爆弾投下地点の調査をした。「空襲があったことを知らない人が多くなっている。戦時下で隠されてしまった空襲の事実を伝えたい」と話す。

 空襲があった1945年5月5日、祖父母と姉、妹と5人で自宅にいた。午前11時15分ごろ、空襲警報のサイレンが鳴り、けたたましい半鐘の音が響き渡った。外に出て空を見上げると、爆撃機の機影が一つ見え、東の方角に飛び去った。

 安堵(あんど)した瞬間、爆撃機が旋回し、再びうなりを上げ海側から集落に近づいてきた。負傷して戦地から戻った隣家の元兵士の「爆風が来るぞ! 道路に伏せろ!」と怒鳴る声が聞こえた。その直後、「ドカーン」と大きな音が5、6回響いた。

 「大地が震え、音だけで死んでしまいそうだった」。爆風によるものか、向かいの理髪店のガラス戸が5、6枚割れていた。

 自宅から約400メートル離れた水田に複数の爆弾が落ち、死傷者が出たと耳にした。着弾した水田を見に行くと、直径約10メートル、深さ約3メートルの穴が四つほど、信越線の黒井駅の方向に向かって等間隔で一直線に並んでいた。「人を殺すものは、こんなに威力があるのか」とまざまざと感じた。

 上越市史などによると、直江津空襲では、直江津港近くの工場地帯脇の水田や黒井駅付近の倉庫などに50キロ爆弾計7発が投下された。農作業中の人や駅の操車係ら計3人が死亡し、少なくとも5人が負傷した。しかし、当時は軍部の情報統制が厳しく、新聞では「被害は皆無」と...

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