
新潟水俣病1965年、新潟県の阿賀野川流域で公式確認された。阿賀野川上流の鹿瀬町(現阿賀町)にあった昭和電工(現レゾナック・ホールディングス)の鹿瀬工場が、アセトアルデヒドの生産過程で生じたメチル水銀を含む排水を川に流し、汚染された川魚を食べた流域住民が、手足の感覚障害や運動失調などを発症する例が相次いだ。56年に熊本県で公式確認された水俣病に続く「第2の水俣病」と呼ばれる。が公式確認から60年となった中、「公害の原点」といわれる熊本、鹿児島両県の水俣病が来年で公式確認70年となる。水俣病はメチル水銀に汚染された不知火(しらぬい)海の魚介類を食べた沿岸住民に被害が広がった。熊本県水俣市に移り住み、50年以上にわたり水俣病が招いた地域の分断を見続けてきた新潟県出身者がいる。水俣で最後の魚の行商人とされ、今年1月に引退した中村雄幸さん(74)だ。豊饒(ほうじょう)の海と密接に関わっていた地域の暮らしを見つめてきた中村さんを訪ね、思いを聞いた。
(報道部・桑田実結)
遠くに天草諸島が連なる、湖のように穏やかな海。この不知火海の恵みが水俣の暮らしを支えていた。
「自慢の海です」。4月下旬、中村さんは高台から不知火海を見つめ、かつての地域の様子を語った。小さな舟を浮かべて漁に出かける夫婦、磯で遊んで貝を採る子どもたち…。街中には魚を売り歩く行商の姿があった。
水俣病は海との距離が近いがゆえに、被害が拡大した。川魚が貴重なタンパク源だった阿賀野川流域で発生した新潟水俣病と重なる。
旧吉川町(上越市吉川区)で生まれ育ち、高校卒業後に地元を離れた。海に憧れて進んだ山口県の水産大学校で学生運動に加わるも、急速に沈静化し、挫折を味わった。何事もなかったかのように学業に戻る周囲とのギャップに葛藤していた1971年、友人に水俣に行こうと誘われた。
1年近く網元をしていた水俣病の患者家族宅に身を寄せ、漁を手伝った経験が転換点になった。以来、半世紀以上を水俣で暮らす。
▽行商続ける中で見えてきた事情
メチル水銀を含む工場排水を海に流した原因企業チッソを相手取り、73年に初めて患者側の勝訴が確定した。勝訴後は患者認定を求める人が増え、「水俣病センター相思社」の職員として申請の手伝いに奔走した。
患者たちから発病のいきさつを聞き取る中で、目の前に広がる海を誇らしげに語る姿に触れた。魚文化への憧れが心の中に育っていった。
「海と人とのつながりの中で生きてみたい」。88年に魚の行商人に転身し、...























