
被害者への思いなどを語る旗野秀人さん(左から2人目)と川合純丈論説編集委員(右)=7月12日、新潟市北区
新潟水俣病新潟水俣病 1965年、新潟県の阿賀野川流域で公式確認された。阿賀野川上流の鹿瀬町(現阿賀町)にあった昭和電工(現レゾナック・ホールディングス)の鹿瀬工場が、アセトアルデヒドの生産過程で生じたメチル水銀を含む排水を川に流し、汚染された川魚を食べた流域住民が、手足の感覚障害や運動失調などを発症する例が相次いだ。56年に熊本県で公式確認された水俣病に続く「第2の水俣病」と呼ばれる。の支援者と、報道を続けてきた記者がそれぞれの立場で新潟水俣病の歴史や被害者への思いを語る講演会が12日、新潟市北区の県立環境と人間のふれあい館で開かれた。
今年が新潟水俣病の公式確認60年の節目に当たることから、新潟日報紙面で歴史を振り返る企画展の開催に合わせ、ふれあい館が主催。新潟水俣病安田患者の会事務局長の旗野秀人さん(75)と新潟日報社の川合純丈論説編集委員(56)が対談し、約40人が聞き入った。
旗野さんは、1982年に提訴し95年に政治決着が図られた新潟水俣病第2次訴訟に原告として参加した安田患者の会の会員を支え、被害者の日常を追ったドキュメンタリー映画「阿賀に生きる」の...
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