東西冷戦を終わらせたことが最大の功績だ。世界を核戦争の危険から遠ざけた。平和に懸けた遺志を引き継ぎたい。

 旧ソ連最後の最高指導者だったゴルバチョフ元ソ連大統領がモスクワ市で死去した。91歳だった。

 1985年に共産党書記長就任後、硬直した党独裁体制を立て直す「ペレストロイカ(改革)」と言論を自由化する「グラスノスチ(情報公開)」を推進した。

 民主主義と社会主義は矛盾しないというのが持論で、計画経済から市場経済への移行を目指した。一党独裁からの民主化を図り、複数政党制や大統領制を導入した。

 89年に米大統領と「東西冷戦の終結」を宣言、ベルリンの壁崩壊や東西ドイツ統一に道を開いた。90年に受賞したノーベル平和賞はその重みを象徴している。

 東西融和は米ソ間の核軍縮にもつながった。87年に中距離核戦力(INF)廃棄条約、91年に第1次戦略兵器削減条約(START1)に調印した。

 それぞれ核ミサイルや戦略兵器の削減を定めた史上初の条約だ。それまでの軍拡競争を軍縮に転換させた「歴史を変えた男」だった。

 ところがINF条約は2018年、米側が破棄を表明、失効した。一方のロシアはウクライナに侵攻し、欧米と「冷戦時代より悪い」と言われるほど対立している。

 侵攻に対し、ゴルバチョフ氏の主宰財団は「軍事行動を即時中止し、平和的な交渉を始めるよう求める」との声明を出した。

 ペレストロイカが成し遂げられなかったことが悔やまれよう。

 改革路線が進むにつれ、経済は行き詰まり国民生活が悪化、政治改革は保守派の抵抗を招いた。自由化を進めた結果、ウクライナを含む各地で民族問題が噴出した。

 打ち出した政策で、自らの政治基盤が弱体化したともいえる。

 1991年のクーデター未遂で実権を失い、ソ連は崩壊した。

 ソ連最高指導者として91年に初来日し、日ソ共同声明で領土問題の存在を認め、北方四島名を初めて明記した。来日は複数回で広島、長崎の被爆地も訪ねた。

 本県でも経済界を中心に「ゴルバチョフ大統領を新潟に呼ぶ会」が結成された。改革路線はソ連に対する県側の期待を高めていた。

 その後、両国の経済状況が悪化し、対岸交流への機運は冷え込んでいる。極東に近い優位性を生かし、経済交流の道を再び探るべきだ。それには侵攻をやめ、平和なロシアを実現してもらいたい。