
環境省の前田光哉審議官との面会で、救済策の検討などを求める新潟水俣病の被害者ら=5月21日、新潟市中央区
「懇談の充実と関係の修復」。環境省の前田光哉審議官は、5月21日の新潟水俣病1965年、新潟県の阿賀野川流域で公式確認された。阿賀野川上流の鹿瀬町(現阿賀町)にあった昭和電工(現レゾナック・ホールディングス)の鹿瀬工場が、アセトアルデヒドの生産過程で生じたメチル水銀を含む排水を川に流し、汚染された川魚を食べた流域住民が、手足の感覚障害や運動失調などを発症する例が相次いだ。56年に熊本県で公式確認された水俣病に続く「第2の水俣病」と呼ばれる。被害者らとの面会で、水俣病被害者の発言遮断問題を受けて環境省内に設置された水俣病タスクフォースの役割をそう説明した。被害者側は、全被害者救済を目的にするよう求めたが、前田氏は「環境相に伝える」と繰り返すのみ。踏み込んだ発言のない実務責任者に、被害者からは「誰でもできる答弁だ」との不満が相次いだ。
「被害者はみんな高齢で妹も亡くなった。一日も早く、一人残さず救済してもらわないと、死んでも死にきれない」。新潟水俣病被害者の会の小武節子会長(87)は、懇願するように前田氏に迫った。
伊藤信太郎環境相との...
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