東日本大震災から11日で13年となった。被災地全体としては道路などのインフラが復旧し、復興は徐々に進んでいる。震災当初は被災3県を中心に推計47万人だった避難者は約3万人になった。

 だが、東京電力福島第1原発事故が起きた福島県で暮らしていた人たちは、いまだ2万6千人余りが避難生活を送っている。このうち2万人超は県外だ。

 将来にわたり居住を制限するとされる帰還困難区域は、県土の2・2%に当たる計約310平方キロで、原則立ち入り禁止の範囲は7市町村にまたがる。

 福島の復興への道のりはなお険しいと認識しておきたい。希望する全員が一日も早く故郷に戻れるような基盤整備が求められる。

 震災と原発事故という大きな犠牲を代償に得た貴重な教訓は、能登半島地震被災地の復旧作業と今後も起こりうる災害の復興でも生かしていかねばならない。

 第1原発を巡っては、汚染水を浄化した処理水の海洋放出が昨年8月に始まった。政府は廃炉を円滑に進めるためとしている。

 留意したいのは、事故後に操業の全面自粛を強いられ、再開後は風評被害に直面した沿岸漁師らの反対を押し切って、政府が放出を決定したことだ。地元が不利益を被ることのない対策を求める。

 放出による国内の風評被害は幸いほとんど見られないが、中国が日本産水産物の輸入を停止したため、国内漁業関係者への打撃は深刻だ。本県でも佐渡のナマコ産業が苦境に立つ。

 新たな販路の開拓が急がれる。国際社会に理解を深めてもらうため、政府は日本の立場を繰り返し説明し、禁輸解除に向けて中国と粘り強く交渉してもらいたい。

 海洋放出が30年程度続く間、東電に放出を管理できるのかと懸念が募る。放出後の昨年10月には作業員が放射性物質を含む廃液を浴び、先月は弁の閉め忘れによる汚染水漏れも起きたからだ。

 廃炉の作業は溶融核燃料(デブリ)の取り出しが難航している。推計880トンの取り出し方法が決まらず、処分の方法や場所は議論すら始まっていない。

 能登半島地震では、北陸電力志賀原発の重大事故時の避難ルートに定められていた幹線道路の多くが、土砂崩れなどで寸断された。

 逃げるに逃げられない状況を想像すると心寒くなる。住宅が損壊していれば、屋内退避は有効とはいえないだろう。

 避難の判断に用いる放射線監視装置(モニタリングポスト)の一部が測定不能になり、避難情報を伝える防災行政無線の屋外スピーカーはバッテリー切れで稼働停止が相次いだ。

 地震や津波、豪雪などとの複合災害時の避難方法は常に検証し、見直していく必要がある。それも東日本大震災の大きな教訓だ。