香淳皇后から贈られた義眼を入れた野村吉三郎海軍提督(左)=1932年7月27日、東京・築地の海軍軍医学校(日本電報通信社撮影)
 香淳皇后から贈られた義眼を入れた野村吉三郎海軍提督(左)=1932年7月27日、東京・築地の海軍軍医学校(日本電報通信社撮影)
 香淳皇后から贈られた包帯を受け取り、退出する杉山元・陸軍次官(手前)=1931年9月30日(日本電報通信社撮影)
 上海に発送される、香淳皇后が贈った包帯=1932年2月24日(日本電報通信社撮影)
 全国赤十字大会でお言葉を述べる香淳皇后=1972年5月8日、東京都千代田区の日比谷公会堂
 昭和天皇と笑顔の香淳皇后=1985年8月21日、栃木県の那須御用邸
 連合艦隊司令長官の山本五十六と面会したことを記す「香淳皇后実録」
 連合艦隊司令長官の山本五十六
 山本五十六
 先の大戦を巡る主な動き

 宮内庁が9日公開した香淳皇后実録は、戦中・戦後の転換期に揺れた「皇后」の行動を克明に記録した。「銃後の守り」の模範となった戦時下から一転、民主主義の価値観を学び、昭和天皇と共に国民との関係性を再構築していく姿を実録の記述を基にたどった。

 ▽国威発揚

 「重大な任務を背負って出征されること誠にご苦労に思う」。1941年12月3日、連合艦隊司令長官の山本五十六と面会し、香淳皇后は言葉をかけた。5日後、真珠湾攻撃で日米が開戦した。

 実録には、戦地で司令官を務める陸海軍大将らの名前が次々登場する。皇后の「お言葉」も記載され、帰還した際は「皇軍の武威を発揚したことはご苦労」とねぎらった。山本には、側近の...

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