アメリカ・ロサンゼルス郊外の自宅で並ぶ日系人のグレース・ヨシモトさん(右)と礼子さん=2025年6月
 アメリカ・ロサンゼルス郊外の自宅で並ぶ日系人のグレース・ヨシモトさん(右)と礼子さん=2025年6月
 自宅に飾られていた善本忠玄(左)と礼子さんの写真=2025年6月、アメリカ・ロサンゼルス郊外
 アメリカ・ロサンゼルスの街並み=2025年6月
 母・礼子さんの戦後について語るグレース・ヨシモトさん=2025年6月、アメリカ・ロサンゼルス郊外
 戦時中、ロサンゼルス周辺に住む日系人らが集められたサンタアニタ競馬場。グレースさんの父・忠玄さんもここを経由して内陸部の収容所へ送られた=2025年6月、ロサンゼルス郊外アルカディア
 広島弁で渡米した当時を振り返る向井司さん=2025年6月、カリフォルニア州サンタモニカ
 長年庭園業を営んできた向井さんは今も趣味の盆栽を楽しむ=2025年6月、カリフォルニア州サンタモニカ
 アメリカ・ロサンゼルス郊外アナハイムに住む大竹幾久子さん=2026年6月、アナハイム
 被爆者団体を解散させた時の資料を見つめる大竹幾久子さん=2025年6月アナハイム
 被爆者団体の解散を示す書類。英語で「解散」を意味する「DISSOLVED」の文字が見える=2025年6月、アナハイム

 「母は沈黙を続け、できるだけアメリカ人になろうとしていた」

 アメリカ・ロサンゼルス郊外に住む日系人のグレース・ヨシモトさん(69)は母・礼子さん(96)の戦後をそう語る。

 1945年8月6日、米軍が原子爆弾を落とした日に礼子さんは生まれ育った広島にいた。当時16歳。

 広島市郊外の叔父の家に疎開していたが、市中心部にいた父を捜しに行き残留放射線を浴びた。父とは再会できたが、焼け野原で髪を逆立て、ひどいやけどを負った人をたくさん見たという。

 戦後、進駐軍兵士としてやってきた日系2世善本忠玄さんと出会って結婚。1954年にアメリカに渡り、翌年グレースさんが生まれた。

 しかしグレースさんが礼子さんの...

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