記者会見する志村康さん(左から2人目)ら=2016年4月25日、熊本県合志市
記者会見する志村康さん(左から2人目)ら=2016年4月25日、熊本県合志市
国賠訴訟提訴のため熊本地裁に入る志村康さん(前列中央)=1998年7月
志村康さんが暮らした国立療養所菊池恵楓園=2024年11月
2001年5月11日、熊本地裁前で「ハンセン病国家賠償訴訟」の勝訴判決に喜ぶ原告団や支援者ら
村職員の刺殺体が見つかった現場付近を歩く志村康さん=2015年2月、熊本県菊池市
筆者の取材に応じる志村康さん=2016年3月、熊本県合志市
ハンセン病市民学会の会場に設けられた志村康さんの追悼コーナー=5月、熊本市中央区の熊本県立劇場
ハンセン病への差別の解消に生涯をささげた志村康さん。博覧強記で知られたが、雑談になるとユーモアあふれる語り口で冗談を飛ばし、いつも人の輪ができていた=2015年6月、東京都内

 5月に92歳で死去した志村康(しむら・やすし)さんは、わが子に会えなかった。ハンセン病を発症したことを理由に、1996年まで存在した「らい予防法」により、妻は中絶を迫られたからだ。そんな法律は基本的人権を保障した憲法に反すると訴訟を起こし、法廷で心の底からこう訴えた。「裁判長、私の子どもを国から取り戻してください!」

 ハンセン病への偏見がもたらした過酷な体験を明らかにすることで、悲劇が繰り返されないよう願い、差別のない社会の実現を夢見た人生だった。(共同通信=岡本拓也)

 ▽ハンセン病は「治る病気」でも隔離政策

 志村さんは1933年、佐賀県で生まれた。15歳のときに発症し、国立ハンセン病療養所...

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