半藤一利さん、末利子さん夫妻=2018年
半藤一利さん、末利子さん夫妻=2018年

 新潟県の旧制長岡中学出身の作家で「歴史探偵」を自任した半藤一利さんが1月に90歳で亡くなってから、12日で半年になる。半藤さんは自身の戦災体験を原点に「日本の一番長い日」「昭和史」など多くの著書を出し、「日本がなぜ無謀な戦争をしたのか」を研究し続けてきた。「長岡の縁」で結婚した妻でエッセイストの末利子さん(86)に、一利さんの残した言葉や戦争に対する思いなどを聞いた。(論説編集委員・小原広紀)

 -一利さんの死因は老衰だったと公表しました。

 「2019年夏に酔って転び、大腿(だいたい)骨を折って入院した。手術がうまくいかなかったり、内臓が傷んだりして、退院できたのは去年の4月。それから少しずつ快方に向かうと思ったが、12月の暮れに急速に体調が悪くなった。年明けに立てなくなり、その5日後に亡くなった。死期を悟っていたようで、『先に逝くことを許してください』としきりにわびていた」

 -ほかに言い残したことはありましたか。

 「亡くなる12日の明け方、『起きてる?』と声を掛けてきた。慌てて枕元にしゃがみ込むと、『日本人はそんなに悪くないんだよ』と言う。そして『墨子を読みなさい。2500年前の中国の思想家だけど、あの時代に戦争をしてはいけないと言ってるんだよ。偉いだろう』と。そう言ってまた静かに眠りにつき、気付いたときには息をしていなかった。戦争の恐ろしさを語り続けた彼の、最後の言葉だった」

 -墨子は非戦論を掲げ、その実践に奔走しました。

 「彼は墨子を尊敬していて、『墨子よみがえる』という本も書いた。戦争体験者として、普段から戦争につながる動きを一つ一つ摘んでいかないといけないと話していた。だから私だけへの遺言でなく、私を通して多くの人に伝えたかった言葉なのかもしれない」

 -一利さんは東京の下町で1945年3月に東京大空襲に遭ったのが昭和史研究の原点だと語っていました。その体験を絵本などにも書き残しています。

 「彼は猛火にまかれ、逃げ惑って川に落ち、死にかけた。無我夢中で人をかき分けて水面に顔を出したところを、誰かがつかんで船に上げてくれて助かった。川岸で幼子を抱えた母親が火だるまになる様子や、数え切れない死体を見ても何も感じなかったそうだ。人間性を失うのが戦争の怖さだと話していた。私も疎開先の長岡で45年8月の長岡空襲を目撃した。だから夫婦とも戦争は嫌だ、駄目だという思いは強い」

 -一利さんも終戦前に長岡に疎開し、末利子さんに出会うことになります。

 「兄が長岡中学の同級生で、終戦後に彼を家に招いた。私はまだ小学生だった。その後、彼が文芸春秋、兄はNHKに入社し、私が兄の家に行って再会した。私は当時17、18歳。彼のことは何とも思わなかったが、彼は『サナギがチョウに変わった』と思ったそうだ。『どうしても結婚したい』と言われ、10年ほど後に結婚した。彼は死ぬまで、うんと優しくしてくれた。本当に愛されたと思う。こんなことをぬけぬけというのも気が引けるが」

 -一利さんの勤めた文芸春秋は、松岡譲のかつての友人で後に確執があった菊池寛が興した会社です。

 「それはすごく引っかかった。菊池は、私の父母を悪役に仕立てた本を書いた久米正雄と一緒に父を排斥した。いわば親のかたきだ。父は結婚に反対はしなかったが、夫に『よりにもよって君と結婚するとはね』と言ったそうだ。そんな父を思うと涙が出る。2015年に夫は菊池寛賞を受賞したが、私は怒って一時けんつくを食らわせていた」

 -一利さんは長岡市の米百俵賞の選考委員長を長く務めるなど、長岡との縁は晩年まで続きました。

 「彼は長岡が本当に好きだった。戦後、彼の家族は早く東京に戻ったが、彼は米百俵の話に感動して単身、長岡に残って長岡中学を卒業した。兄をはじめ長岡中の同窓生との仲はずっと続いていた。中学の先輩に当たる山本五十六も熱心に研究した」

 -ただ長岡花火観覧の誘いは断っていました。

 「彼も私も花火は嫌いで、花火を見ると2人で不機嫌になったものだ。焼夷(しょうい)弾、空襲をどうしても思いだしてしまうので。だから、戦争を心から憎んでいる。戦争は人の英知で防ぐことができる。戦争を体験する者も目撃する者も二度と、決して生み出してはならない。それが彼と私の願いだ」

◎半藤末利子(はんどう・まりこ)1935(昭和10)年生まれ。長岡市出身の作家松岡譲と夏目漱石の娘筆子の四女。44年に長岡に疎開し、長岡高卒業まで暮らす。著書に「夏目家の糠(ぬか)みそ」「硝子(がらす)戸のうちそと」など。