長岡空襲の夜、火の手を逃れようと走った金峯神社の参道を歩く遠藤良子さん=長岡市西蔵王2
長岡空襲の夜、火の手を逃れようと走った金峯神社の参道を歩く遠藤良子さん=長岡市西蔵王2

 1945年8月1日の長岡空襲から78年。午後10時半に始まった空襲は翌2日の午前0時10分まで続き、降り注ぐ焼夷(しょうい)弾で、市街地は火に包まれた。新潟県の長岡市民は燃え上がる自宅を後にし、火のない方へ必死に逃げた。だが、街は焦土と化し、7月の模擬原爆による死者4人と合わせ、少なくとも1488人の尊い命が失われた。空襲の惨禍を伝えようと、新潟日報社が募った体験記などから、あの夜の記憶をたどった。(2回続きの1回目)

 長岡市福住3の遠藤良子さん(87)は小学校低学年の時、東京と長岡で2度の空襲を体験した。1945年の長岡空襲から78年を経ても、爆撃機のごう音や暗闇に焼夷(しょうい)弾が散らばった光景が忘れられない。

 東京・向島区(現在の墨田区)で二男四女の末っ子に生まれた。生活は決して豊かではなかったが、都内の施設で食堂を任されていた父は子煩悩で優しく、家族で神奈川県の江の島や鎌倉といった名所に出かけ、戦火が厳しくなるまでは幸せだったという。

 5歳の時に長兄が出征。44年秋には、遠藤さんと4歳上の姉だけが両親のふるさとの長岡に疎開した。良子さんにとって疎開生活は、家族と離れて寂しくつらいものだった。「たとえ死んでも、優しい家族と一緒にいたほうがいい」と強く感じ、45年2月、いったん東京に戻ったその何日か後に東京大空襲に遭った。

 空一面が真っ赤に染まり離れた所に爆弾が落ちるのを、自宅の庭に掘った小さな防空壕(ごう)から見ていた。家は燃えなかったが、東京は危険だと考えた父は「長岡なら田舎だから安全だろう」と疎開を決めた。現在の西蔵王1の知人宅の2階に住まうことになった。

金峯神社のケヤキ並木に身を潜め、長岡空襲から逃れた遠藤良子さん。当時隠れた木を探しながら参道を歩く=、長岡市西蔵王2の金峯神社

 1945年の8月1日夜、空襲警報が鳴り、良子さんは家族に揺り起こされた。家の裏に焼夷弾がばらばらと雨のように降り注いだ。家族と一緒に約300メートル離れた金峯(きんぷ)神社を目指し走る途中で、参道の大きなけやきの幹にしがみつき、空襲がやむのを待った。

 夜が明けると、家は焼け柱一本すら残っていなかった。近所の屋敷の防空壕に入れた貴重品も全て失われた。「安全だと思って移った長岡が、まさか被災地になるなんてね」と良子さんは述懐する。

 空襲後の数年間、一家は長岡の親戚の家に暮らし、生活再建を目指した。優しかった長兄は南方のニューギニア島で戦死したとの知らせが届いた。

 いまも戦争は起きており、子どもたちに戦争の悲惨さを伝えなければいけないと思う。「戦争は勝っても負けても不幸になる。なぜ止められないのでしょうか」

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