長岡空襲の忘れられない光景を体験画に表現した山谷恒雄さん=長岡市城内町2の長岡戦災資料館
長岡空襲の忘れられない光景を体験画に表現した山谷恒雄さん=長岡市城内町2の長岡戦災資料館

 1945年8月1日にあった「長岡空襲」からことしで78年となる。2003年に開館し、7月12日で20周年を迎えた新潟県長岡市の長岡戦災資料館(城内町2)は、運営ボランティアら市民の力を結集し、活動を展開してきた。体験者や犠牲者の遺族が高齢となる中、空襲の悲惨さを忘れず、資料館を核に平和への思いをつなぐ取り組みが広がる。20年の軌跡は未来に託す財産となっている。(2回続きの1回目)

 長岡空襲の夜、当時13歳だった山谷恒雄さん(91)=弓町1=は柿川沿いの自宅が燃えていくさまを、対岸から呆然と見つめていた。翌朝、焼け野原となった街を歩くと、交差点に黒焦げの遺体が横たわっていた。別の場所では、衣服は焼けず眠っているような母子3人の遺体があった。

 「極端に違う遺体の状態だった。大きなショックを受けた」。絵の心得はなかったが、忘れられない光景を61年後の2006年、3枚の絵に表現。空襲体験画として長岡戦災資料館に提供した。

 山谷さんは05年、小学校の友人に誘われて資料館の運営ボランティアになり、現在も続ける。07年に始まった遺影の展示では、家族や離れて住む親族が隣り合って並ぶよう、9年間配置図作りに心を砕いた。「来場した遺族は犠牲者をしのび、静かに手を合わせる人もいた。苦労したかいがあった」と振り返る。

■    ■

 炎の中を逃げ回ったこと。多くの遺体を見たこと。資料館は体験者の生の証言を大事にしてきた。開館時から活動を引っ張ってきた七里アイさん、金子登美さんら亡くなった人も含め、計16人が語り部として空襲の悲惨さを伝えてきた。

 その1人、星野栄子さん(85)=旭町1=は、大勢が亡くなった平潟神社に逃げ、父と5歳の弟を亡くした。4年前に語り部になり、小学校や平和祈念式典で体験を話している。

 長い間、「悲惨な記憶を忘れたい」と空襲のことは胸に秘めてきた。高齢となり、身辺整理をする中、2人の遺影と母が生前に書いた手記を資料館に提供したのが転機となった。金子さんに「あなたが話さなかったら、お母さんの気持ちやそばで亡くなった人のことが、誰にも知られないままになるよ」と背中を押された。

 「これからあんなに悲しいことがないように。体験を残していかなきゃいけない」。子どもたちが熱心に聞いてくれることが活動の励みになっている。

■    ■

 これまで総勢77人のボランティアが資料館を支えてきた。ただ、20年たつ中で高齢化が進み、現在は24人となり、このうち空襲体験者は9人に減った。ボランティアを核とした運営は難しくなっているのが実情だ。

 現在は専任職員4人と市庶務課が主に運営を担う。語り部を学校に派遣する手配や、体験者に催しへの出演を依頼するなど、高齢となった関係者と丁寧に意思疎通し、業務に当たる。

 館長の貝沼一義さん(66)は「空襲体験を聞く機会は少なくなっているが、今後も空襲の事実を伝える努力を続ける」と話す。

自らが描いた空襲体験画を紹介する山谷恒雄さん

 6月23日には、長岡空襲をテーマにした平和劇を毎年演じる長岡市の希望が丘小学校6年生66人が学習にやって来た。職員は「焼夷弾から飛び散った油脂が燃えたら、防火水槽の水では消せないんだよ」と空襲の恐ろしさを解説した。

 児童の一人は(12)は「一人一人の大切な命。空襲の犠牲者を思うと、もしこの人が生きていたら、その後の人生は楽しいこともたくさんあったと思う」と想像した。

 今できることは何か。関係者は模索を続けながら、資料館を運営している。

[連載・下]遺影、体験画 声なき声が語る

[連載・特別編]資料館のこだわりと展示と