水道タンクの近くで、長岡空襲を振り返る小林善雄さん=長岡市水道町3
水道タンクの近くで、長岡空襲を振り返る小林善雄さん=長岡市水道町3

 1945年8月1日の長岡空襲から78年。午後10時半に始まった空襲は翌2日の午前0時10分まで続き、降り注ぐ焼夷(しょうい)弾で、市街地は火に包まれた。新潟県の長岡市民は燃え上がる自宅を後にし、火のない方へ必死に逃げた。だが、街は焦土と化し、7月の模擬原爆による死者4人と合わせ、少なくとも1488人の尊い命が失われた。空襲の惨禍を伝えようと、新潟日報社が募った体験記などから、あの夜の記憶をたどった。(2回続きの2回目)

 「あの日のことを思い出そうとすると、頭の中が真っ赤になる」

 空襲の4年前に長岡市中島3の自宅前で撮影した親族との集合写真を寄せた小林善雄さん(84)=水道町4=は、生活を一変させた空襲を振り返る。

 当時6歳。一家10人で住んでいた。空襲警報が鳴り外へ出ると、既に向かいの料亭や近隣から炎が上がっていた。8歳上のいとこに手を引かれ、無我夢中で水道タンク(水道町3)まで走った。信濃川の土手に身を潜めると恐怖心からか、眠りに落ちた。

1941年に小林家の親族14人で撮影した集合写真。前列左から2人目の赤ちゃんが善雄さん=長岡市中島3

 家族はみな...

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