1945年8月15日の終戦から78年となった。戦争を経験した人が少なくなる中、新潟日報社は当時の日記や手紙を募集し、新潟日報紙面やデジタルプラスに掲載している。太平洋戦争の主な出来事や新潟県との関わりについて年表を交えて紹介する。
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太平洋戦争1941年から1945年まで行われた戦争。日本がアメリカやイギリスなどの連合国と戦った。第2次世界大戦の一つで、アジア・太平洋を戦域とした戦いとも位置づけられる。1941年以前から継続していた日中戦争の続きという側面もある。アジア・太平洋戦争、大東亜戦争という呼称も使われる。日中戦争などを含む一連の戦争による日本の死者数は軍人・軍属、民間人ら約310万人に上るとされるは1941年12月8日、新潟県長岡市出身の連合艦隊旧日本海軍の中核を担った艦隊。司令長官が指揮を執った。司令長官・山本五十六1884ー1943年。日本の海軍軍人。日本海海戦に参加するなどした後、旧海軍の連合艦隊司令長官に就任。太平洋戦争中、前線視察の際にブーゲンビル島上空で搭乗機が撃墜され戦死した。が指揮した米国ハワイ・真珠湾への攻撃1941年12月7日(日本時間8日)、日本軍が米ハワイ・オアフ島の真珠湾にあった米軍の基地や艦隊へ戦闘機などで行った奇襲攻撃。山本五十六が指揮し、太平洋戦争の引き金となった。米国は攻撃の翌日、日本へ宣戦布告した。と、これに先立つ英国領・マレー半島への攻撃旧日本陸軍の南方作戦の一つ。香港やシンガポールなどを攻略、確保する作戦のうち、イギリス領だったマレー方面で行った軍事行動。シンガポール島の攻略を目的とした。により始まった。中国や東南アジアへの進出を目指す日本と、それに反対する米英、オランダなどの連合軍による戦いで、約3年8カ月に及んだ。
開戦2日後のマレー沖海戦マレー半島の沖合で旧日本海軍とイギリス海軍の間で行われた戦闘。日本海軍の航空隊がイギリスの戦艦などを撃沈した。で英軍に勝利するなど、当初は日本軍が勝利を重ねた。
戦争に進む中で、新聞は国民をあおった面がある。真珠湾攻撃の1週間前、同年12月1日の新潟日日新聞(新潟日報の前身)には「英米の野望へ鐵槌(てっつい)」「敵性の首魁は米国」と米英との対立を強調するような記事が掲載されている。
旧制長岡中学出身の作家で「日本のいちばん長い日」などの著作を残した半藤一利1930-2021年。東京生まれ。戦時中、疎開先である旧制長岡中学(新潟県長岡市)に入り終戦を迎えた。東大文学部卒業後、文芸春秋に入社。昭和史や太平洋戦争をテーマに研究。「日本のいちばん長い日」「昭和史」など著書多数。さんは、戦後、国が戦時に発表する情報やスローガンに国民が熱狂することの危うさを指摘し、警鐘を鳴らしていた。
太平洋戦争は42年6月のミッドウェー海戦1942年6月5日から7日にかけ、太平洋のミッドウェー島沖で行われた日本海軍と米艦隊との交戦。日本は主力の空母4隻や多数の艦載機(航空機)、熟練パイロットを失った。日本側の指揮は山本五十六。海戦後、アメリカは本格的な反攻に入り、戦争の大きな転機となった。で日本が主力空母4隻を失い、転機を迎える。8月から始まったソロモン諸島ガダルカナル島の戦い南太平洋ソロモン諸島のガダルカナル島を巡って、旧日本軍と米軍の間で行われた戦闘。一時日本が占領した島を米軍に奪還され、再び取り戻すために派兵が繰り返された。新潟県関連では新発田市を拠点とする陸軍の歩兵第16連隊が派遣された。日本軍は補給路を断たれるなどし、飢えやマラリアなどによる死者が戦闘による死者以上に多かったといわれる。で、多くの戦死者や戦病死者を出し、日米の攻守は逆転する。
43年4月には、搭乗機が米軍の攻撃を受け、山本五十六が戦死。兵士の不足から、10月に学生の徴兵延期措置を撤廃する勅令東条英機内閣下で取られた学生、生徒の徴兵猶予を停止する措置(一部理系などを除く)。兵力不足を補うため、20歳以上の学生を在学途中で徴兵し、出征させた。「学徒出陣」とも呼ばれる。新潟県からも20歳に達していた旧制新潟高校の生徒らが学徒出陣した。後に徴兵適齢は19歳に引き下げられた。が出されるなど、戦争は国民を総動員する消耗戦となっていく。
44年7月にサイパン島日本の南約2400キロに位置するマリアナ諸島の一つ。第一次大戦以降、日本が占領し、日本からの移住も進んだ。米国の反攻作戦により1944年6月以降は上陸した米軍に追い詰められ、日本軍は壊滅状態となる。多数の日本兵や日本の民間人、現地人らが死亡した。米軍の説得に対して、投降を拒み多くの自決者が出た。自決者は1万人以上とされている。サイパン島は米軍による日本本土空襲の拠点となったが占領されると、同島周辺から出撃したB29米軍の爆撃機。後続距離が長く、高高度を飛行できた。日本の本土空襲に使われ、大きな被害を出した。による日本本土の空襲東京や大阪、名古屋などの大都市だけでなく地方都市も標的とされ、大きな被害が出た。当初は軍事施設、軍需工場などを標的としていたが、次第に無差別に住宅を焼き付く攻撃へと変わった。が本格化。45年3月の東京大空襲の犠牲者は約10万人に上った。6月ごろからは中小都市や地方都市への空襲も激化。8月1日の長岡空襲米軍による長岡市上空からの無差別爆撃。空襲は1945年8月1日の午後10時半から1時間40分にわたった。B29爆撃機が、計16万発以上の焼夷弾を投下したとされる。判明しているだけで1484人が亡くなり、約1万2千戸を焼失。市街地の8割が焼け野原となった。では、7月の模擬原爆原爆投下目的で編成された米国の特殊部隊が落とした通常火薬の爆弾。目標地点を狙う訓練のため造られ、核物質は使っていない。1945年7月20日~8月14日、18都府県に計49発が投下され、400人以上が死亡したとされる。新潟県では長岡市、柏崎市、阿賀町に投下され、市民が犠牲になった。投下と合わせ、1488人が犠牲となった。
広島、長崎には原爆原子爆弾。ウランやプルトニウムといった核分裂をする際に巨大なエネルギーを放出する物質を使った兵器。核兵器とも。数千度に達する熱と熱線、放射線が放出され、激しい爆風も起こる。1945年8月6日に広島に投下され、8月9日には長崎に落とされ、多くの市民らの命を奪ったが投下され、8月15日に終戦。同日正午、玉音放送天皇の肉声を放送すること。玉は天皇、音は声を指す。通常は1945年8月15日の正午に社団法人・日本放送協会がラジオ放送したものを指す。ポツダム宣言の受諾と、日本の降伏を伝える目的で録音、放送された。日本ではこの放送が行われた日を「終戦の日」としている。国際的には日本が降伏文書に調印した9月2日を戦争が終結した日と捉える国もある。により国民に敗戦が告げられた。