
1945年8月1日の長岡空襲1945年8月1日午後10時30分から1時間40分にわたり、米軍が長岡市上空で実行した無差別爆撃。125機の爆撃機B29が飛来し、16万発以上の焼夷弾(しょういだん)を投下した。で亡くなった人々のうち、長岡市に疎開してきたばかりで犠牲となった新潟鉄道教習所の女子教習生たちの足跡が、新潟日報社の取材で明らかになった。市の空襲殉難者名簿に9人の氏名が記されているものの、詳細は不明だった。6人の遺影が残っていたことも判明。知られていなかった悲劇の一端が浮かび上がった。
<長岡空襲>1945年8月1日午後10時30分から1時間40分にわたり、米軍が長岡市上空で実行した無差別爆撃。125機の爆撃機B29が飛来し、16万発以上の焼夷弾(しょういだん)を投下した。市街地は8割を焼失。7月20日の模擬原爆の犠牲者も含め、判明しているだけで1488人が亡くなった。
9人は亡くなる1カ月前の7月1日、上越地域や長野県などの故郷を離れ、新潟市下所島(現新潟市中央区)にあった新潟鉄道教習所に入所した。兵役で男の働き手が減り、女性職員の育成が急務となっていた。9人を含む28回電信科の75人は全員女性で、新潟市が米軍の攻撃を受ける恐れが高まったとして、7月31日前後に長岡市旭町2の長岡分教所へ疎開した。
【新潟鉄道教習所の犠牲者】
池田トシ(15)=新潟市
齋藤芳乃(15)=新潟市上沼垂駅
渡辺修(14)=新潟市上沼垂駅
新保安枝(14)=中頸城郡潟町村
本田郁代(15)=中頸城郡直江津町
齊藤ヒサエ(15)=西頸城郡青海町
田玉良子(15)=上田駅
竹本友子(15)=上田駅
丸山二三子(14)=松本駅
※敬称略。出身地・勤務地は長岡空襲戦災殉難者名簿に従った。
8月1日夜、長岡の市街地を米軍の無差別爆撃が襲った。生徒の多くは市街地を離れて助かったが、異郷の地に来たばかりだった9人は、逃げるべき方向が分からずに、戦火に巻き込まれたとみられている。
長岡空襲戦災殉難者名簿には、9人の氏名、出身地か勤務した駅名が記されているだけだった。2024年秋、長岡分教所の職員だった男性の遺族が、遺品から8人分の死亡証明書を見つけ、長岡戦災資料館に寄贈し、本籍地や生年月日が分かった。
新潟日報社は本籍として記された古い住所を手がかりに遺族を探し、8人の遺族にたどり着いた。遠く離れた長岡で身内が空襲で亡くなったこと以外、何も知らされていなかったという遺族もいる中で、6人の遺影が残っていることが分かった。
◆遺族「生きた証しを残してほしい」
長岡空襲で新潟鉄道教習所の女子教習生9人が犠牲になった事実は、長岡市でもほとんど知られていない。9人とも空襲の直前に疎開した市外出身者だ。新潟日報社がそれぞれの出身地を訪ねると、遺族たちは不運が重なった末の最期を知り、言葉を失った。長岡戦災資料館が長岡空襲の犠牲者の遺影を収集していることを知り、遺族は「生きた証しを残してほしい」と館に遺影を託した。
「池田トシ15=新潟市、新保安枝14=中頸城郡潟町村、田玉良子15=上田駅…」。9人の氏名は長岡空襲の殉難者名簿に、教習所在所中に戦災死した生徒として記されている。しかし、出来事を報じた1971年8月26日の新潟日報も、9人の詳細には触れていない。空襲当日の様子は、教習所で一緒に学んでいた故・芝井良子さんが2013年に発表した体験談「疎開三日目に長岡空襲」が、唯一の手がかりだった。

遺族を訪ねるきっかけとなった「死亡証明書」は昨年9月、長岡分教所の職員だった故・小宮巳代次(みよじ)さんの長男の和巳さん(81)=新潟市西区=が長岡戦災資料館に寄贈した。丸山二三子さんを除く8人分で、1945年8月2日の発行。戦災資料館は、遺族に渡った証明書とは別に、新潟鉄道局が保管した控えだと推測する。
証明書にある本籍地を当たった。ほとんどが転居していたが、8人全員の遺族に話を聞くことができ、6人の遺影があると分かった。戦災資料館で遺影収集に尽力してきた初代館長の古田島吉輝さん(89)は「遺影は命の大切さを伝えてくれる。9人は長岡に来なければ、今日近くまで生きられただろうに、気の毒だった」と悼んだ。
犠牲者の齊藤ヒサエさんの遺影はなかったが、おいの孝さん(68)=糸魚川市=は「空襲で亡くなったことだけは祖母から聞いていたが、...