自宅で談笑する青塚琉時さん(左)と父の慎一さん=7月、茨城県神栖市
 自宅で談笑する青塚琉時さん(左)と父の慎一さん=7月、茨城県神栖市
 家族が原因不明の症状に見舞われた当時の状況を語る青塚美幸さん=8月、茨城県神栖市
 雨上がりの夕方、自宅近所を散歩する青塚さん一家=8月、茨城県神栖市
 防護服に防じんマスクで、高濃度の有機ヒ素汚染地点の掘削の準備作業をする作業員ら=2004年12月、茨城県神栖町(現神栖市)
 終戦まで毒ガス兵器が製造された広島県竹原市・大久野島の忠海製造所=1946年
 茨城・神栖市

 2001年10月、茨城県神栖市に転居して間もない一家が原因不明の体調不良に襲われた。生後間もなかった青塚琉時さんは死の淵をさまよった。後の調査で、旧日本軍の毒ガス原料によるヒ素中毒が原因と判明。90メートル先の空き地に何者かが原料が混ざったコンクリートを投棄し、地下水を伝って井戸水に混入していた。24歳になった今も重度の知的障害を負う琉時さん。母の美幸さん(48)は「戦争を知らない世代がなぜ戦争の被害に遭うのか」と憤る。

 琉時さんは01年9月に生まれ、翌月、家族で神栖市木崎の一軒家に越した。地下水が豊富な土地で、多くの家庭が井戸水を飲み、琉時さんも井戸水で溶いたミルクを飲んでいた。

 程なくし...

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