戦時中、日本政府は満州(現中国東北部)への移民政策を国策とし、新潟県を含む全国から多数の開拓団を送り出しました。戦況悪化や旧ソ連の侵攻などで多くの被害を出した満蒙開拓について読みトキます。
Q 戦時中、民間の人も大陸に行っていたの?
A そうです。特に規模が大きかったのは満蒙開拓団です。1932年に、日本が中国東北部に満州国をつくりました。36年には農業移民100万戸移住計画が国策となり、約27万人の開拓団が海を渡りました。新潟県からも約1万3千人が参加しました。都道府県別では5番目に多かったといいます。
Q そんなに大勢が行ったんだね。戦後はどうなったの?
A 戦争末期に参戦したソ連軍が満州に侵攻してきたため、現地は混乱して危険な状況となりました。侵攻してきたソ連軍や、抗日勢力からの襲撃などに対し、本来は国民を守るはずの日本軍はほとんど機能しませんでした。
Q 戦後、日本に帰ってくるのも大変だったんだね。
A 食料なども十分ではなく、引き揚げの途中で命を落とす人もいました。親を失うなどして帰国できずに、中国に残るしかなかった子供たち(中国残留孤児)もいました。結果として、国策で満州に送られた開拓団で約8万人が犠牲になったといわれています。新潟県関係では5千人を超える人が亡くなったとみられています。

























