新潟県長岡市を襲った1945年8月1日の「長岡空襲」について解説します。
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米軍は日本の委任統治領だったマリアナ諸島・サイパンを1944年7月に占拠、基地を築き、長距離爆撃機B29による日本本土への空襲を本格化させた。44年11月に東京を空襲。当初は軍事施設を狙っていたが、都市全体を爆撃する方針へと転換した。
45年3月10日の東京大空襲では約10万人が命を落としたとされる。米軍は続く12日に名古屋、13、14日に大阪、17日には神戸を爆撃。さらに大都市から中小都市へと標的を拡大していった。
米軍は空襲すべき全国180都市を人口規模などからリスト化していた。新潟県内は新潟市が32番、長岡市73番、三条市135番、高田市(現上越市)168番、柏崎市172番だった。
原子爆弾の投下候補地だった新潟市は除外された中で、45年8月1日午後10時半から翌2日午前0時過ぎ、長岡市が空襲された。この夜は東京都八王子市、水戸市、富山市でも大規模空襲が行われ、4都市で少なくとも4900人を超える人が亡くなった。
8月14日、日本は7月26日に連合国から出されていた降伏勧告「ポツダム宣言」の受諾を決定。15日、昭和天皇が玉音放送で国民に終戦を告げ、三条、高田、柏崎は大規模な空襲を免れる形となった。
一方、焼夷弾をばらまく大規模空襲はなくとも、航空機による機雷投下や機銃掃射は新潟市などであり、死者が出た。長岡市、柏崎市、阿賀町には模擬原爆が投下された。港周辺に残った機雷の被害は戦後も続いた。