
車を巻き込んだ土砂崩れ、孤立集落の道路に書かれたSOS、全住民が長期間にわたって避難した村-。2004年10月23日に発生した新潟県の中越地震2004年10月23日、新潟県中越地方を震源として発生した地震。旧川口町(現在の長岡市)で震度7、旧山古志村、旧小国町(いずれも現長岡市)、小千谷市で震度6強を観測した。新潟県や内閣府の資料によると、地震の影響で68人が亡くなり、4795人が重軽傷を負った。住宅の被害は計12万1604棟で、このうち全壊は3175棟、大規模半壊は2167棟、半壊は1万1643棟だった。から、まもなく20年。被災現場で何が起きていたのか。人々の記憶に残る当時の報道写真を振り返り、あの時、あの場所にいた人たちを訪ねた。(6回続きの1)
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山が崩れ、家や道路がのみ込まれた。牛舎が倒壊し、2人が亡くなった。中越地震から一夜明けた2004年10月24日、山古志村(現新潟県長岡市)の被害状況が、山古志中学校に設けられた災害対策本部に続々と入った。道路は至る所で寸断され、ライフラインは全て止まった。降雪前にはとても復旧できそうにない。「逃げるしかない」。長島忠美村長(故人)は、全村避難を決断した。
村の建設課長だった小川喜太郎さん(74)=山古志東竹沢=は、歩いて全村避難の伝達に回った。震災当日、村外に出たまま戻れなくなった役場職員が、長岡市内で村民が入る避難所の開設に向け奔走した。
全村避難に戸惑う村民は多く、村を出たくないと訴える高齢者や、錦鯉や牛、ペットを置いて行くのをためらう人がいた。小川さんは「村長が早く決めて動き出したのだから、サポートしなければならない」と思い、村民を説得した。
村民は着の身着のまま、ヘリコプターの発着場所に集まった。被害が大きく着陸できない集落では、1人ずつつり上げ、発災3日後の26日までに約2200人の全村民が避難した。上空から村の惨状を見た酒井幸二さん(74)=山古志虫亀=は「山古志は終わった。もう帰ってこられない」と感じた。

仮設住宅には、集落ごとにまとまって入居した。「帰ろう山古志へ」を合言葉に、最長3年2カ月の避難生活を送った。
山古志は今、地震前に比べ人口が激減した。11年前から虫亀の区長を務めている酒井さんは、住民同士助け合って行う除雪作業の人繰りに頭を悩ませるが、住み慣れた環境で暮らせるありがたみを感じる。「よそにはない山古志の良さは、震災の後で分かった」と語った。
◆この山でいつまでも 山古志地域・梶金集落、唯一の飲食店に集う住民
2004年10月23日の中越地震で、大きな被害を受けて避難せざるを得なかった中山間地域の集落では人口が減少。長岡市山古志地域(旧山古志村)では人口が3分の1の約720人にまで減った。戻った住民は...