
東日本大震災2011年3月11日午後2時46分、三陸沖を震源にマグニチュード(M)9.0の地震が発生し、最大震度7を観測。東北地方を中心に大津波が発生した。東京電力福島第1原発は電源を喪失して炉心溶融(メルトダウン)が起き、原子炉建屋が水素爆発で損壊、大量の放射性物質が拡散した。震災関連死を含む死者、行方不明者は計2万2千人超。から3月11日で14年。津波で亡くなった次女の遺骨を今も探し続ける男性がいる。東京電力福島第1原発事故2011年3月11日に発生した東日本大震災の地震と津波で、東京電力福島第1原発(福島県大熊町、双葉町)の6基のうち1~5号機で全交流電源が喪失し、1~3号機で炉心溶融(メルトダウン)が起きた。1、3、4号機は水素爆発し、大量の放射性物質が放出された。と震災の被害伝承に取り組む「大熊未来塾」代表理事、木村紀夫さん(59)。自宅は福島県大熊町。除染土などを保管する中間貯蔵施設の敷地内だ。事故の直後は立ち入りが制限され、捜索の機会さえ奪われた。「救えたはずの命を犠牲にしてしまう。それが原発事故だ」。政府と東電が柏崎刈羽原発新潟県の柏崎市、刈羽村にある原子力発電所で、東京電力が運営する。1号機から7号機まで七つの原子炉がある。最も古い1号機は、1985年に営業運転を始めた。総出力は世界最大級の約821万キロワット。発電された電気は関東方面に送られる。2012年3月に6号機が停止してから、全ての原子炉の停止状態が続いている。東電が原発を再稼働させるには、原子力規制委員会の審査を通る必要がある。7号機は2020年に全ての審査に「合格」したが、安全対策を施している最中で、再稼働していない。(新潟県)の再稼働東京電力福島第1原発事故を受け、国は原発の新規制基準をつくり、原子力規制委員会が原発の重大事故対策などを審査する。基準に適合していれば合格証に当たる審査書を決定し、再稼働の条件が整う。法律上の根拠はないが、地元の自治体の同意も再稼働に必要とされる。新潟県、柏崎市、刈羽村は県と立地2市村が「同意」する地元の範囲だとしている。に向けて動く今、木村さんは「原発をまた動かすなんてあり得ない」とつぶやく。(論説編集委員・仲屋淳)
2月下旬、木村さんは中間貯蔵施設内で県外から来た大学生らを案内した。本年度のフィールドワークや講演は約160回に上る。
太平洋を見渡せる自宅は波打ち際から約100メートル。福島第1原発の南約4キロの場所にある。
自宅前には白い軽トラックがある。「おやじの車。地震の日からそのままです」。木村さんは、津波で父王太朗(わたろう)さん=当時(77)=、妻深雪(みゆき)さん=当時(37)=、小学1年の次女汐凪(ゆうな)さん=当時(7)=の家族3人を失った。
14年前の3月11日、地震発生時は隣の富岡町にある職場にいた。自宅に戻ったのは午後5時ごろ。自宅は津波に流されていた。

避難所の体育館で母と長女の無事を確認したが、3人がいないと知り、自宅近くを夜通しで探した。
翌12日には原発事故で全町避難となり、捜索は打ち切られた。地元の消防団はぎりぎりまで木村さんの家族を捜してくれた。水没したがれきの中で、かすかな人の声が聞こえたという。
原発事故の危険が迫り、人命救助ができなくなった。「父は生きていた可能性があり、汐凪も一緒だったかもしれない。きちんと捜せていれば、見つかったのではないか」と言葉を絞り出す。
木村さんは長女と母を県外に避難させ、事故の1週間後に再び町に戻った。4月に父は自宅前の田んぼで、妻は沖合で発見された。
しかし、汐凪さんの行方は分からなかった。...