2011年の東京電力福島第1原発事故2011年3月11日に発生した東日本大震災の地震と津波で、東電福島第1原発(福島県大熊町、双葉町)の6基のうち1~5号機で全交流電源が喪失し、1~3号機で炉心溶融(メルトダウン)が起きた。1、3、4号機は水素爆発し、大量の放射性物質が放出された。の後、福島県の多くの子どもたちが新潟県への避難を余儀なくされた。「さよなら」を伝える間もなく友達と別れ、家族が離れ離れになることも多かった。13年前にまだ幼かった人たちは今、何を思うのか。「あの日」とその後の暮らしについて聞いた。(新潟日報社取材班)=3回続きの1=
福島第1原発事故を受け、母と弟妹2人の家族4人で、福島市から新潟市に移り住んだ。
「避難したことは、人にはない自分の『個性』だと思う」。大学1年のユイさん(19)=仮名=は経験を前向きに捉える。大学の推薦入試でもそんな思いを書類に記し、合格した。今は東京に暮らす。
「新潟には友達もいっぱいいるし、福島より遊ぶ場所もある。東日本大震災2011年3月11日午後2時46分、三陸沖を震源にマグニチュード(M)9.0の地震が発生し、最大震度7を観測。東北地方を中心に大津波が発生した。東京電力福島第1原発は電源を喪失して炉心溶融(メルトダウン)が起き、原子炉建屋が水素爆発で損壊、大量の放射性物質が拡散した。震災関連死を含む死者、行方不明者は計2万2千人超。が起きて、新潟での生活が私にとって当たり前の日常になった」
正月や夏休みなどに、予定が合えば祖父母が暮らす福島市の実家にも帰る。「新潟、福島のどちらも大切な帰る場所」だ。

13年前に福島第1原発事故が起きたのは、ユイさんが幼稚園の卒園式を控えた時期。小学校に上がると、放射性物質を防ぐため微粒子対応のマスクを着け、暑い日も長袖やウインドブレーカーを着用した。
母は水道水の汚染を心配し、水筒の持ち込みを学校に掛け合ったが、「周囲の不安をあおるから」と却下されたという。
ユイさんは当時6歳。弟は2歳、妹は生後10カ月だった。福島市は国の避難指示区域外だが、自宅にも放射線量の高い場所があった。安心して子育てするために、母は3人を連れての避難を決めた。父は福島に残った。
事故から2カ月後、避難者を受け入れていた湯沢町のホテルに身を寄せ、7月には新潟市に移った。短期間に2度転校したが「仲のいい友達と一緒に長い間ホテルに泊まれて、特別な経験だった」と思っている。

13年前、福島市から新潟県へ避難したユイさん。避難の経験は「自分の個性」という=3月6日、新潟市中央区
母子で新潟に移って3年が過ぎたころ、避難に対する考え方や二重生活による気持ちのすれ違いが元で、両親が離婚した。ユイさんは冷静に受け止めた。「お父さんとは離れて生活していたし、お母さん子だったので、さみしいとは思わなかった」
◆「かっこいい」避難生活で学校に通い看護師になった母、自分も同じ道を目指して
原発事故に家族は翻弄(ほんろう)された。でも、避難した方がよかったのかどうか、考えたことはない。幼かった自分は母に従っただけだからだ。
振り返って胸に広がるのは、子どもたちのリスクを減らすため避難を決めた母への尊敬の思いだ。「自分なら多分、周囲の考えに流されてしまう。子ども3人を連れて避難するなんて、すごい」

13年前、福島市から新潟県へ避難したユイさん。今は看護師を目指している=3月6日、新潟市中央区
専業主婦だった母は避難してから、安定した収入を得るため、専門学校に通って看護師になった。ユイさんは、母が夜勤の日は食事を作り、洗濯などを手伝うこともあった。
ユイさんも今、看護師になろうと学んでいる。一足先に憧れの職業に就いた母を「私と同年代の人と学校に通い、看護師になった。尊敬するし、かっこいい」と思う。
原発事故で避難した体験から、災害対応にも興味を持った。今後、大学の講義で深く学びたいと考えている。「看護師の仕事には、避難経験が生きるはず」。そう信じ、夢に向かって一歩ずつ進んでいる。